安原貞室

やすはらていしつ

玉海集で知られる貞門七俳人の一人

1610年(慶長15年)~1673年3月25日(延宝元年2月7日)。京都出身。初名は正章、号は一嚢軒(いちのうけん)、通称は鎰屋彦左衛門。京都の紙商。貞門七俳人の一人。子に安原元次
1625年(寛永2年)、松永貞徳に師事し、42歳で点業を許された。「俳諧之註」(1642年)をめぐる論争から発展して、同門の松江重頼とは、しばしば対立した。貞徳亡きあとは「花の本二世」と称し、後継者を名乗り非難を浴びている。
「玉海集」(1656年)刊行。辞世は「今までは目見へせねども主人公八八といひし年もあきけり」。

松尾芭蕉の「鹿島紀行」(寛政2年刊行)冒頭には、貞室が須磨の浦で詠んだ「松陰や月は三五や中納言」の句が記され、旅立ちのきっかけをつくっている。
また、同じく芭蕉の「おくのほそ道」の山中の項(元禄2年7月)に、若い頃に山中を訪れた貞室が、風雅に辱められて貞徳の門人となったことが記されている。曾良の「俳諧書留」にも、以下のように書かれている。

貞室若クシテ彦左衞門ノ時、加州山中ノ湯ヘ入テ宿、泉や又兵衞ニ被進、俳諧ス。甚恥悔、京ニ歸テ始習テ、一兩年過テ、名人トナル。來テ俳モヨホスニ、所ノ者、布而習之。以後山中ノ俳、點領ナシニ致遣ス。

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