あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ
目にはさやかに見えねども芭蕉の感じた秋の気配
松尾芭蕉、1689年(元禄2年)の「おくのほそ道」の「金沢」の最後に「途中唫」として載る。「つれなし」には、「薄情」のほか「変わらない」という意味がある。
芭蕉が金沢に到着したのは、7月15日。7月22日に一笑の追善会があり、7月24日に金沢を発ち小松に入る。その7月24日の吟ならば、新暦の9月7日。この日まで11日連続の快晴であったが、夜には雨となる。湿気を含む、残暑を吹き払う風を詠んだか。
なお、「蕉翁句集」の詞書には「北海の磯づたひ、まさごはこがれて火のごとく、水は涌て湯よりもあつし。旅懐心をいたましむ。秋の空いくかに成ぬともおぼえず。」とあり、奈呉ノ浦あたりの景色ととらえ、金沢に入る前の「途中吟」とする見方もある。
その他、真蹟懐紙に「『めにはさやかに』といひけむ秋立けしき、薄・かるかやの葉末にうごきて、聊昨日に替る空のながめ哀なりければ、」の前書き、真蹟画賛に「北国行脚の時、いづれの野にや侍りけむ、『あつさぞまさる』とよみ侍りしなでしこの花さへ盛過行比、萩・薄に風のわたりし力に、旅愁をなぐさめ侍るとて、」の前書きがあり、古今和歌集に載る藤原敏行の
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる
や、古今和歌六帖に載る源宗于の
涼しやと草むらごとに立ちよれば あつさぞまさるとこなつの花
の和歌が背景に見える。
この句の意味は、「季節など関係ないかのように太陽が暑く照りつけているが、風には秋の気配を感じ取ることができる」といった感じ。
▶ 松尾芭蕉の句
句評「あかあかと日は難面もあきの風」
高浜虚子「俳句はかく解しかく味う」1918年
「日はつれなくも」という言葉など、これが他の人の言葉であるとあるいは厭味を感ずるかも知れないのであるが、元禄のしかも、始終そういう境遇に身を置いた芭蕉であるとすると、その言葉に権威があってしかも真実が籠っていて、その厭味は感ぜられないのである。こういう事をいうと、人によって句の価値を二、三にすると言って攻撃する人があるかも知れないが、俳句にはそういう傾は実際あるのである。一概にそうばかりとはいえないが、作者を離して俳句を考えることの出来ない場合は決して少くはないのである。