あかいつばき しろいつばきと おちにけり
論争ある俳句|椿は落ちているのか落ちていないのか
河東碧梧桐の俳句。季語は「椿」で春。
正岡子規が、同紙「明治二十九年の俳句界」で取り上げたことにより有名になったが、この時には「赤い椿白い椿と落ちにけり」で紹介されている。「新俳句」(1898年)に収録する時に、碧梧桐は「白い椿赤い椿と落ちにけり」に戻している。
もとは、明治29年2月末日付で「春季雑詠」と題し、子規・瓢亭・虚子・漱石・碌堂(極堂)に評点を乞うた四十一句中の一句だという。有名句だけに解釈も分かれ、地面に落ちた椿を詠んだものとするとらえ方と、落ちつつある椿を詠んだものとのとらえ方がある。
個人的には、椿が落ちていく有様を描写した俳句と捉える方が、美しいように思う。赤と白は、源平の昔から並び立つ色である。椿を武人と見て、武士の潔さのようなものが感じられる俳句だと思う。
そういう視点に立てば、「赤い椿白い椿と落ちにけり」であれば、最後を覚悟した道連れの意味に。「白い椿赤い椿と落ちにけり」であれば、他者に明日を託しての刺し違えのような意味と捉えることもできるであろう。
▶ 河東碧梧桐の俳句
句評「赤い椿白い椿と落ちにけり」
正岡子規「明治二十九年の俳句界」1896年
椿の句の如き之を小幅の油画に写しなば只地上に落ちたる白花の一団と赤花の一団とを並べて画けば即ち足れり。蓋しこの句を見て感ずる所実に此だけに過ぎざるなり。椿の樹が如何に繁茂し如何なる形を成したるか又其の場所は庭園なるか山路なるか等の連想に就きてはこの句が毫も吾人に告ぐる所あらざるなり。吾人も又之れ無きがために不満足を感ぜずして只紅白二団の花を眼前に観るが如く感ずる処に満足するなり。
高浜虚子「俳句はかく解しかく味わう」1918年
其処に二本の椿の樹がある。甲は白椿、乙は赤椿というような場合に、その木の下を見ると、一本の木の下には白い椿ばかりが落ちており、一本の木の下には赤い椿ばかりが落ちておる、それが地上にいかにも明白な色彩を画して判きりと目に映るところを言ったのがこの句である。この句でも落ちるという字から、ぽたぽたとあの大きな花が重なり合って重げに地上に落ちている光景が聯想されるのである。これが「赤い椿白い椿と散りにけり」では、椿らしい心持はしないのである。