俳句

春や昔十五万石の城下哉

はるやむかし じゅうごまんごくの じょうかかな

駘蕩とした故郷を懐かしむ俳句だったのか?

春や昔十五万石の城下哉正岡子規による 明治28年(1895年)の俳句。「寒山落木巻四」の明治二十八年の項に、「松山」の前書きで収録されている。日清戦争の従軍記者として、戦地に赴く途上に故郷を詠んだもの。「十五万石」とは、伊予松山藩の江戸時代の石高。
「春や昔」は、敬愛する与謝蕪村の「春やむかし頭巾下の鼎疵」からきたと見られており、古今和歌集の在原業平の和歌「月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」がベースとなっている。
また、寒山落木巻四には「古白を悼む」として、これと同じ時期に詠まれた「春や昔古白といへる男あり」もある。古白とは、子規の従兄弟で、劇作家を目指したが夢破れて明治28年4月12日に自殺した、藤野古白のこと。
俳諧大要(1895年)には、田鶴の「春や昔の山吹の庵」を取り上げており、「『春や昔』と懐旧の意にものしたるは、これも追善の意を含ませたるなり」と述べている。


▶ 正岡子規の句



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JR松山駅前の句碑(愛媛県松山市)

春や昔十五万石の城下哉JR松山駅は繁華街から外れたところにあり、県庁所在地のJRの駅舎としては、最も小さいと言われている。その小さな駅の植え込みの中に、驚くような大きさの青石がある。その面に刻まれているのがこの俳句。俳都松山を象徴する俳句となっており、松山の人なら、誰でも知っている俳句だそうだ。
句碑は、昭和37年(1962年)5月、当時の松山市長によって建立されたもの。周辺の再開発により、交番前の現在地に移されたが、近いうちに再度移動させるかもしれないとのこと。

【俳句の里松山による解説】
春や昔十五万石の城下哉
 正岡子規(一八六七~一九〇二 慶応三年~明治三十五年)
俳都松山を象徴する句碑。近代俳句の始祖、正岡子規の代表句である。
初代藩主加藤嘉明は二〇万石、次の蒲生忠知は二四万石、一五万石は松平定行の石高である。松平定行が伊勢の桑名よりお城入りしたのは寛永一二年(一六三五)。この句が出来た明治二八年からみて二六〇年も前のことであり「春や昔」の感が深い。
日清戦争従軍記者として戦地に赴く直前の句。
 松山市教育委員会
「俳句の里 松山」

【坂の上の雲のまちによる解説】
子規の句碑
春や昔十五万石の城下哉
近代俳句の創始者、正岡子規の代表句である。
この句は、明治28(1895)年に、子規が日清戦争の従軍記者として戦地に赴く直前の句である。松山を象徴的にあらわす句として、松山の玄関口の一つであるこの地に置かれた。
「春や昔」は司馬遼太郎著「坂の上の雲」(文藝春秋刊)の第一章の章名として用いられている。

【撮影日:2019年12月31日】

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