一里はみな花守の子孫かや

ひとさとは みなはなもりの しそんかや

一里はみな花守の子孫かや猿蓑(1691年)所収の松尾芭蕉の句。その猿蓑には、「いがの国花垣の庄は、そのかみ南良の八重桜の料に附られけると、云伝えはんべれば、」の詞書がある。
また、伊賀の半残へ与えられた真蹟白字刷に、「この国花垣の庄は、そのかみならの八重桜の料に備へられ侍りけるとかや、ものにも書つたへられ侍れば、」の詞書とともに、元禄三年の書付がある。
元禄3年(1690年)3月下旬、伊賀から膳所に出る途中、花垣の庄(三重県上野市予野)で詠まれた句。沙石集の「芳心有人事」を下地にしている。それによると、上東門院彰子が、奈良興福寺の別当に言いつけて奈良の八重桜を召上げようとしたが、風流とは縁がないと思われていた法師に反対された。その事に感じて、伊賀国の余野を花カキの庄とし、花の盛りに七日宿直を置いて守らせた。そこは興福寺の寺領になったという。

▶ 松尾芭蕉の句


天現寺の句碑(東京都港区)

一里はみな花守の子孫かや文政6年(1823年)10月、古調庵萬嶽社中建立。「伊賀の國花垣の莊ハそのかみ奈良の八重櫻の料に附られけるといひ傳へ侍れハ 一里はみな花守の子孫かや はせを」とある。碑陰には「こゝに故ありて奈良の宮櫻の實生をうつしありけれは 其薫り四方に滿るや八重櫻 古調庵萬嶽社中 文政六年癸未初冬」とある。
古調庵萬嶽は、出羽上山藩家老をつとめた金子万嶽。藩主との対立で隠居し、麻布に居を構えた。江戸に出て二十数年、句碑が建立される2年前の文政4年(1821年)2月27日の桜の咲く頃、93歳で亡くなっている。
果してこの句碑は、金子万嶽を偲んで建立されたものか。金子万嶽は、奈良の宮桜を育てたのかもしれない。当時ここには、有名な枝垂桜の木があったという。
ただ、寺の案内によると、この句碑は、句会の開催とともに建立されたものではないかということである。
【撮影日:2018年10月22日】

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