俳句

わがきぬにふしみの桃の雫せよ

わがきぬに ふしみのももの しつくせよ

酒銘に刻まれる芭蕉の桃

わがきぬにふしみの桃の雫せよ松尾芭蕉 の紀行文「野ざらし紀行」に、「伏見西岸寺任口上人に逢て」の前書きとともに掲載された句。
貞享元年(1684年)8月から始まった旅の途上、西岸寺三世住持であり、重頼門下の俳人でもある、旧知の任口上人(如羊・宝誉)を訪ねた。芭蕉41、任口上人は80歳。任口上人は、翌年4月13日に亡くなるから、かなり衰弱が進んでいたのだろう。
時は貞享2年(1685年)の春だから「桃」は花。安土桃山時代を築いた伏見城跡地が「桃山」と呼ばれたように、明治のころまで、伏見は指折りの桃の産地。故に、この句が生まれた頃、周囲は花で桃色一色に染まっていたのだろう。


この句の意味は、素直に取れば「私の衣を桃色に染めて下さい」というような、教えを乞う句である。ただ、「きぬ」は「来ぬ」に掛かり、「ふしみの桃」は病床に伏した任口上人と見て、「私が来たのだから、もう、心を開放して涙を流してもいいのです(後生を思うに任せてし尽くすしてもいいのです)。あとは私に任せてください」というように取っても面白いだろう。
因みに、「守破離」などで知られる近くの酒造・松本酒造が、芭蕉の句に寄せた「桃の滴」という日本酒を醸造している。

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伏見の下油掛町西岸寺の句碑(京都府京都市伏見区)

わがきぬにふしみの桃の雫せよ商売繁盛の御利益で知られ、油懸地蔵(あぶらかけじぞう)と呼ばれる浄土宗の寺・西岸寺。野ざらし紀行で任口上人を尋ねたこの寺に、「蕉翁塚」として、「我衣にふしみの桃のしづくせよ」の句碑が立つ。文化2年(1805年)初冬建立、刑部卿貞揮毫。明治12年(1879年)改修。案内板には以下のようにある。

「貞享二年(1685)任口(宝誉)上人の高徳を慕ってたずねた芭蕉が出会の喜びを当時伏見の名物であった桃にことよせて『我衣にふしみの桃の雫せよ』と詠じたもので『野ざらし紀行』には『伏見西岸寺任口上人にあふて』と前書がある。碑は文化二年(1805)の建立である。
任口上人は当山の三世住職。重頼門下の俳人。法名は如羊と称して、宗因に連歌、維舟に俳諧を手ほどきし、晩年、談林の長老として慕われた。当山に訪れる客は多く西鶴や其角、玖也、季吟らの当時の高名な俳人も多く足をとめた。
任口上人は貞享三年(1686)八十一歳で示寂し、当山墓地にまつられている。」
【撮影日:2017年12月29日】

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