くわんをんのいらか見やりつ花の雲

かんのんの いらかみやりつ はなのくも

くわんをんのいらか見やりつ花の雲貞亨3年(1686年)、松尾芭蕉43歳。「末若葉」(其角1697年)所収。「末若葉」に「かねは上野か浅草かと聞えし前の年の春吟也尤病起の眺望成へし一聯二句の格也句を呼て句とす」とある。
深川の芭蕉庵で病気に伏していた時の句。浅草観音の甍が、はるか遠方の花の上に頭を出している様子が、恨めしく響く。

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浅草寺弁天山の句碑(東京都台東区)

くわんをんのいらか見やりつ花の雲浅草寺本堂南東の弁天山は、弁天堂が建つことからその名がある。関東三弁天のひとつに数え上げられるここには、江戸に9箇所設置されていた「時の鐘」が今も残る。元禄5年(1692年)に五代将軍徳川綱吉の命により改鋳されたものであるから、芭蕉の耳にもその音色は響いたであろうが、有名な「花の雲鐘は上野か浅草か」が詠まれたのは1687年。
弁天堂の石段左手に句碑がある。八十三歳翁泰松堂の書と、佐脇嵩雪の芭蕉像が碑面に刻み込まれ、元禄7年(1694年)10月12日の芭蕉103回忌に建立された。元は、浅草寺本堂の北西・銭塚不動の近くにあったというが、戦後に移された。
以下、句碑の横に見つけた説明文。

松尾芭蕉の句碑
くわんをんのいらか見やりつ花の雲
俳諧紀行文「奥の細道」などを著した松尾芭蕉は、寛永二十一年(一六四四)伊賀上野(現、三重県上野市)に生れました。
芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場「泊船堂」に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き「俳聖芭蕉」の異名をとった松尾芭蕉は、元禄七年(一六九四)十月十二日、大坂の旅舎で五十一年の生涯を閉じました。
この句碑は寛政八年(一七九六)十月十二日、芭蕉の一〇三回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
八十三歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、二百年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっております。
奥山庭園にある「三匠句碑」(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、奇しくも「花の雲」という季語が詠みこまれております。
 平成二年四月吉日 浅草観光連盟

【撮影日:2019年10月14日】

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