俳句

麦の穂をたよりにつかむ別れかな

むぎのほを たよりにつかむ わかれかな

永遠の別れを予言した芭蕉句

麦の穂をたよりにつかむ別れかな元禄7年(1694年)に、帰郷する松尾芭蕉 が、川崎宿を少し過ぎたところの京口にある腰掛茶屋・一茶亭(通称「榎だんご」)で、団子を食べながら、見送りの弟子たちの句に応えるかたちで詠んだ句。
「麦の穂」は、曾根好忠の「山がつのはてに刈りほす麦の穂の くだけて物を思ふころかな」を意識したものであろう。ここにおける「麦の穂」は、砕け散りやすいものとして描かれており、それを加味するとこの芭蕉句は、「頼りない麦の穂にすら縋りつきたいようなどん底で、ついに別れが来てしまった…」というような意味になるだろう。

この句は奇しくも、江戸の弟子たちに本当の別れを告げる句となってしまった。しかしながらこの時、芭蕉は決して最後を覚悟して旅立ったのではない。「長崎にまでも足を運び、外国人の声も聞いてみたい」と言って、芭蕉の息子とも目される寿貞尼の子・次郎兵衛を連れて、5月11日に江戸深川を発ったのである。ところが、わずか半年後の10月12日、大坂で突然病に倒れ、客死してしまう。
ただ、句は正直である。一抹の不安を浮き立たせ、見送る者を不安にさせた。この時、野坡は「麦畑や出抜けても猶麦の中」と詠んでいるが、別れを惜しんで麦畑の中をいつまでもついて来たという。

▶ 松尾芭蕉の句

俳句と季語俳句検索俳人検索俳句の辞世句俳句暦俳句関連骨董品

京浜急行八丁畷駅前の句碑(神奈川県川崎市)

麦の穂をたよりにつかむ別れかな京浜急行八丁畷駅の改札を出て、正面を線路沿いに数十メートル行くと、道の左側に祠があって、その中にこの句碑がある。俳人一種が、天保の三大俳人の一人として知られる桜井梅室に揮毫してもらって、文政13年(1830年)8月に建立。
当初は、この句が詠まれた茶屋跡に建てられたというが、その後転々として、昭和27年6月に地元の俳人たちによって、南西に500mほど下った現在地に移された。前回の東京五輪を前に保存機運が高まり、現在は町内会「芭蕉の碑保存会」で管理している。近くの日進町町内会館「麦の郷」や「芭蕉ポケットパーク」にも、関連展示物がある。
句碑前は緑地となっており、保存会で麦を栽培したりしているとのことであるが、周囲はビル街で、ここに麦畑があったとは想像さえできない。
【撮影日:2018年5月3日】

▶ グーグルマップ