麦の穂をたよりにつかむ別れかな

むぎのほを たよりにつかむ わかれかな

麦の穂をたよりにつかむ別れかな松尾芭蕉 晩年元禄7年(1694年)、大坂で客死する芭蕉、最後の旅立ち。川崎宿を少し過ぎたところの京口にある腰掛茶屋・一茶亭(通称「榎だんご」)で、団子を食べながら、見送りの弟子たちの句に応えるかたちで成った句。
5月11日、寿貞尼の子で、芭蕉の息子とも目される次郎兵衛を連れて江戸深川を発ち、故郷の伊賀上野に向かう。死を決して旅に出たわけではなく、「長崎にまでも足を運び、外国人の声も聞いてみたい」と言っていた。しかし、句には一抹の不安が表れ、見送る者には心もとなく映っていた…
この時、野坡には「麦畑や出抜けても猶麦の中」の句がある。当時、辺り一帯は麦畑だったという。

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京浜急行八丁畷駅前の句碑(神奈川県川崎市)

麦の穂をたよりにつかむ別れかな京浜急行八丁畷駅の改札を出て、正面を線路沿いに数十メートル行くと、道の左側に祠があって、その中にこの句碑がある。俳人一種が、天保の三大俳人の一人として知られる桜井梅室に揮毫してもらって、文政13年(1830年)8月に建立。
当初は、この句が詠まれた茶屋跡に建てられたというが、その後転々として、昭和27年6月に地元の俳人たちによって、南西に500mほど下った現在地に移された。前回の東京五輪を前に保存機運が高まり、現在は町内会「芭蕉の碑保存会」で管理している。近くの日進町町内会館「麦の郷」や「芭蕉ポケットパーク」にも、関連展示物がある。
句碑前は緑地となっており、保存会で麦を栽培したりしているとのことであるが、周囲はビル街で、ここに麦畑があったとは想像さえできない。
【撮影日:2018年5月3日】

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