夏草や兵どもが夢の跡

なつくさや つわものどもが ゆめのあと

夏草となった義経の夢|松尾芭蕉の有名句

夏草や兵どもが夢の跡元禄2年(1689年)松尾芭蕉「おくのほそ道」の旅における句。この句の意味は、「むかし夢をかけて戦い、兵士たちが土に還って行った。今は夏草が茂るばかりだ」といったところか。無常を詠んだ句の代表と目され、俳句の世界に大きな影響を及ぼし続けている名句である。

芭蕉は、江戸を発って44日目にして、奥州平泉に着く。前日から一関に宿をとり、その5月13日(新暦6月29日)、源義経の居館「高館」に昇って眼下に広がる地形を見やった。そして、義経が自害して果てた500年前の文治5年(1189年)閨4月30日(新暦6月15日)に思いを馳せながら、杜甫の「春望」に感じて涙を流した。

前日は激しい雨が降ったというから、北上川は水量も増していたかもしれない。雨は上がっており、夏草はキラキラと輝いていただろう。
以下、「おくのほそ道 平泉」より。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡
 卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良

なお、洒堂・正秀編「白馬集」(1702年)には、芭蕉真蹟を写したものだとして、「さてもそのゝち御ざうしは、十五と申はるの比、鞍馬の寺を忍び出、あづまくだりの旅衣、はるけき四国・西国も、此高館の土となりて、申ばかりはなみだなりけり。旅士ばせを 夏草や兵共が夢の跡」と、十二段草子に拠った詞書がつく。「御ざうし」とは源義経。

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毛越寺の句碑(岩手県西磐井郡平泉町)

夏草や兵どもが夢の跡の俳句「夏草や兵どもが夢の跡」が詠まれた高館義経堂から、南西に1㎞ほど下ったところに、世界遺産・天台宗別格本山毛越寺がある。この寺は、嘉祥3年(850)慈覚大師の創建。奥州藤原氏第2代基衡と第3代秀衡が再興した寺で、かつては中尊寺をしのぐほどの規模を誇った寺。源頼朝の侵攻により秀衡は自害。頼朝側についた第4代泰衡は頼朝に打たれ、その年9月3日に奥州藤原氏は滅んでしまう。毛越寺は頼朝により、武門の祈願所として残されたが、嘉禄2年(1226)に炎上してしまったという。
その毛越寺の境内に、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の句碑が並んで立つ。左側は、明和6年(1769年)碓花建立。碓花とは、妙高山大光寺十四世・碓花坊也寥で、芭蕉の従甥にあたる。平泉来訪の折、芭蕉の書を持参し、芭蕉真蹟の句碑を建立したという。句碑には「夏草や兵共か夢の跡」。
右側は、文化3年(1806年)慈眼庵素鳥建立。素鳥とは、平泉の俳人で中尊寺の僧である。この副碑には「夏草やつはものともか夢の跡」と刻まれている。

なお、毛越寺の広大な境内は、世界遺産だけあってきれいに整備され、夏草も生えぬほどである。今また脚光を浴びる史跡に、時の流れの面白みを感じる。
【撮影日:2018年9月29日】

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