いどばたの さくらあぶなし さけのよい
元禄の四俳女のひとりと正岡子規に評された菊后亭秋色の句。秋色は、幼い時から宝井其角について俳諧を始めたと言われており、この句は13歳の時のものと伝わる。
天和2年(1682年)、花見に上野を訪れた際、井戸端の酔っぱらいに危険を知らせるため、この句を記して枝にくくりつけたという。それを上野寛永寺の住職でもあった当時の輪王寺宮が賞し、江戸の町で評判になった。いわば、標語の奔りである。
この句に詠まれた桜は植え継がれながら、現在でも上野公園の清水観音堂に「秋色桜」として残っている。後に「秋色桜」は講談にもなり、孝行娘としての秋色を語り継ぐものとなっている。その内容は、以下のようなものである。
秋色がくくりつけた短冊に、偶然通りかかった公寛法親王が気付き、作者を探し出して会ってみたところ、13歳の娘だった。そうして評判を呼び、大名・安藤信友にも招かれたが、帰りに雨が降り出し、与えられた駕籠を父親に譲る。隙を見て入れ替わった秋色の孝行ぶりが、大いに江戸で評判になる・・・。
▶ 菊后亭秋色の俳句
上野公園・清水観音堂の句碑(東京都台東区)
清水観音堂の裏手に秋色桜と井戸があり、そこに句碑が立っている。西郷隆盛像側から清水観音堂へ向かった方が分かりやすい。
句碑は昭和15年10月に、聴鴬荘主人により建てられたという。背後には、9代目になるという秋色桜、横には「秋色桜」の碑とともに井戸がある。ただし、実際に秋色がこの句を詠んだ場所は、北方に100メートルほどのところにある摺鉢山だったとも言われており、確定していない。
秋色桜の種類はヤエベニシダレザクラ。ソメイヨシノが咲き始めた頃に出かけてみたが、まだ蕾は固かった。碑文は、下記のようになっている。
此句伝為菊后亭秋色書其筆致却似野
菊庵秋色真偽宜俟後考也 狩野亨吉●
井戸はたの桜あふなし酒の酔 秋色
上野清水観音堂のうしろ井の端に桜あり元禄の昔小網町の菓子屋の娘お秋といふ者十三歳の頃花見に来りこの桜を見て井戸はたの句を詠す此の句輪王寺宮の御聴に達し特に感あらせられしに人口に膾炙し秋色桜の名を得たりお秋は俳諧を其角に学び菊后亭秋色と号し享保十年四月十九日享年五十余にして身まかりぬ云々
また、横に掲げられた説明には下記のようにある。
秋色桜(しゅうしきざくら)
台東区上野公園一番
上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。
井戸ばたの
桜あぶなし
酒の酔
この句は元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものである。桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となった。お秋は当時十三歳だったと伝えられている。俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は、「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいい正確な位置については定かでない。
お秋は、九歳で宝井其角の門に入り、其角没後はその点印を預かる程の才媛であった。享保十年(一七二五)没と伝えられる。
碑は、昭和十五年十月、聴鴬荘主人により建てられた。現在の桜は、昭和五十三年に植え接いだもので、およそ九代目にあたると想像される。
平成八年七月
台東区教育委員会
【撮影日:2020年3月20日】
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