俳句

竹馬やいろはにほへとちりぢりに

たけうまや いろはにほへと ちりじりに

竹馬やいろはにほへとちりぢりに「道芝」(1927年)所収の久保田万太郎の俳句。大正15年(1926年)、25歳の時の作。
中村裕氏は「よもやま句歌栞草」の中で、「太田道灌が武蔵国小机の戦でつくった『手習ひはまづ小机が初めなりいろはにほへとちりぢりにせん』というのが本歌だろう」と述べている。明治時代の軍歌にも、同様の「いろはにほへとちりぢりに」のフレーズがあったという。
本来「いろはにほへとちりぬるを」となるところを、上手く語感を合わせて「いろはにほへと」を数えことばにして、蜘蛛の子を散らすような様子を表現している。目の前には竹馬で遊ぶ子供たちがいるのだろうが、万太郎の目には、音信不通になった竹馬の友の顔が浮かんでいたことだろう…。万太郎の代表句にも数え上げられる、「竹馬」を季語とした冬の俳句である。

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浅草神社の句碑(東京都台東区)

久保田万太郎の俳句浅草神社の鳥居を潜って右手に、久保田万太郎のこの句碑がある。左前方に、はっきりした字体の副碑があるために、木陰にその異形を隠すこの句碑に気付かない人も多いらしい。
万太郎は、浅草の雷門に生まれ、浅草界隈はフィールドであった。この句は慶應義塾大学講師を辞して、日暮里諏訪神社前に移る前後に詠まれたもの。
万太郎3回忌となる年の昭和40年(1965年)、生誕の11月7日に、日本演劇協会・浅草神社奉賛会・浅草観光連盟が建立。万太郎直筆の色紙からとられた文字が刻まれている。
碑陰には、以下のようにある。

 記
久保田万太郎ハ東京ノ人 明治二十二年十一月七日生レ 昭和三十八年五月六日二ワカ二逝ク 慶応義塾在学中二十二ノトキ小説朝顔ノ一篇ニヨツテ文壇二知ラレテ以来五十年 小説戯曲及ビ俳句二名作多ク前二日本藝術院会員二選バレ 後二文化勲章ヲ授ケラレ 更二逝去二祭シ従三位勲一等二叙セラレタノハソノ栄トスルトコロト察セラル 久保田ハ浅草二生レ浅草二人ト成ル 観世音周辺一帯ノ地ノ四時風物トソノ民族人情ヲ描イタ大小ノ諸篇ハ日本文学二永ク浅草ヲ傳エルモノトイウベキデアロウ ココ二有志ノ者等相圖リ ͡コノ地ヲトシ 句碑ヲ建テ其人ヲ偲ブ 時二昭和四十年十一月七日、
 小泉信

【撮影日:2019年10月14日】

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