俳句

行く春を近江の人と惜しみける

ゆくはるを おうみのひとと おしみける

「動く句」論争の中心にある名句

行春を近江の人とをしみける松尾芭蕉、元禄3年(1690年)3月。猿蓑に、「望湖水惜春」の前書きで「行く春を近江の人と惜しみける」。懐紙に「やよひの末つかた志賀辛崎のあたりにふねをうかへて」の前書きで「行く春やあふみの人とおしみける」。
この句の意味は、素直にとれば、「春が過ぎ去ろうとしているのを、近江(滋賀)の人と一緒に惜しんだことよ」という意味になる。

「おくのほそ道」の旅を終え、故郷・伊賀上野から京都を廻り、この句が詠まれた元禄3年晩春には、芭蕉は膳所の義仲寺無名庵に身を寄せた。この句が詠まれた辛崎(唐崎)は、そこから北西へ4キロほどのところ。柿本人麻呂の近江荒都歌の反歌「さざなみの志賀の辛崎幸あれど大宮人の船待ちかねつ」で知られるところである。
なお、立夏を過ぎた4月6日からは、門人の菅沼曲水に提供された幻住庵(滋賀県大津市)に滞在。この惜春の頃には、芭蕉のために幻住庵の改修も行われていただろう。

この句は、近江国大津の俳人・江左尚白から、動く句であるとの指摘が入った句でもあるが、去来抄に、

行く春をあふみの人とをしみける 芭蕉

先師曰、尚白が難に、近江は丹波にも、行春は行歳にも有べしといへり。汝いかゞ聞侍るや。去来曰、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便有べし。殊に今日の上に侍ると申。先師曰、しかり、古人も此國に春を愛する事、おさおさ都におとらざる物を。去来曰、此一言心に徹す。行歳近江にゐ給はゞ、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば本より此情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成る哉と申。先師曰、汝は去来共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦給ひけり。

と、芭蕉の考えが記されている。つまり、近江は丹波に、行春は行歳に入れ替えることのできる動く句だという指摘に、この湖水朦朧とした景色の中に春を惜しむことは、古から受け継がれていることだというのである。「近江荒都歌」を念頭に置いたものなのだろう。
いずれにせよ、春風駘蕩たる淡海の懐の深さ。帰る場所を失っていた芭蕉に手を差し伸べる近江の人々への、ほのぼのとした感謝の気持ちもくみ取れる名句である。

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義仲寺の句碑(滋賀県大津市)

行春を近江の人とをしみける木曾義仲や巴御前の墓所であり、芭蕉が葬られた義仲寺には、20もの句碑が立ち並ぶ。山門入って右の朝日堂前の句碑が「行春をあふミの人とおしみける」。
脇には芭蕉桃靑とあり、碑陰には「昭和三十七年五月十二日建之 芭蕉本廟義仲寺同人会」。芭蕉の270回忌記念で建立されたもの。境内にはその他にも、200回忌記念の「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」、250回忌記念の「古池や蛙飛こむ水の音」の、芭蕉句碑がある。
芭蕉は、この義仲寺無名庵に、元禄2年(1689年)年末から翌年始にかけて滞在、一旦故郷・伊賀上野に帰り、3月中旬から4月頭まで滞在した。今も、無名庵の名を残す館が境内にある。

義仲寺境内南西隅には、近江での次の住処を提供した門人の曲翠(曲水)墓もある。享保2年(1717年)7月20日、悪家老とされる曽我権大夫を刺殺し、切腹して果てたという。
【撮影日:2018年12月31日】

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