俳句

季語|花火(はなび)

晩夏の季語 花火

手花火(てはなび)遠花火(とおはなび)

花火の俳句と季語(両こく大花火)盆の鎮魂や秋祭りの奉納として打ち上げられ、秋の季語として扱う場合もあるが、両国の花火が川開きとともに行われたことが全国に広がり、夏の風物詩として定着し、夏の季語となっている。
俳諧歳時記栞草では秋之部に分類され、和漢三才図絵の引用で「熢燧(のろし)に代ふべきもの」としているが、「夏月河辺の遊興」との記述もある。
その種類も多く、観賞用では打上花火・仕掛花火・手花火などのおもちゃ花火に分けられる。

花火のルーツは、6世紀頃の中国の狼煙と言われている。13世紀にヨーロッパに渡り、色と音が加わった。日本で観賞用に花火が用いられはじめたのは、室町時代から戦国時代だと考えられているが、外国人の布教に伴うものである。
現代につながる花火を最初に鑑賞したのは、徳川家康だと言われており、1613年8月にイギリスの国司が駿府城を訪れて披露したとされる(1589年に伊達政宗が米沢城で見た、中国人花火師によるものがはじめてのものだとの説もある)。
江戸時代になると、戦での火薬の使用が減少していくとともに、花火を専門に扱う火薬屋が登場し、おもちゃ花火(手花火)の製造を行った。
流行とともに江戸では火災が頻発したために、17世紀に3回に分けて花火禁止令が出された。その影響で、江戸を追われるように地方に花火が広がっていく。

因みに、1659年におもちゃ花火をはじめて売り出した鍵屋が、現在における日本で最も古い花火業者(宗家花火鍵屋)となっている。鍵屋は1711年に、徳川家宣の命で、初めて隅田川に花火(流星)を打ち上げた。享保18年(1733年)5月28日には、水神祭の両国川開き大花火を創始している。
鍵屋と並んで名の挙がる「玉屋」は、1808年に鍵屋が番頭に暖簾分けして生まれた。両国の川開きでは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持ち、鍵屋を凌ぐ勢いがあった。しかし、火事を起こしたために一代で取り潰しとなった。
「花火屋は何れも稲荷の氏子なり」という川柳がある。鍵屋は稲荷神を守護神とし、玉屋に暖簾分けする際に、鍵と玉をそれぞれに持つ眷属にあやかったということを謳ったものである。

日本の花火は美しいと言われるが、その最大の特徴は丸さである。外国の花火玉は筒を用いるのに対し、日本の花火玉は球形なので、打ち上がった時に美しい球となる(現在では、外国の花火も改良が進んでいる)。

【花火の俳句】

ねむりても旅の花火の胸にひらく  大野林火
遠き闇終の花火と知らで待つ  野澤節子

【花火】
花火は、目だけでなく耳でも楽しむもの。だから、最近はやりの音楽などいらない。(YouTube 動画)

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