三春の季語 遍路
順路に沿って霊場を巡回する巡礼の風習は、世界各地に広がっている。日本では、四国八十八箇所や、西国三十三所などがある。けれども、「遍路」と言うと、おのずと四国八十八箇所を指し、その巡礼や巡礼者のことを言う。それには、語源となった「辺土」が絡んでいると考えられる。
四国では古くから、修行の地となるような辺境の地を「辺土」と言い表していた。それが、弘法大師信仰とともに、あまねく照らす道という意味の「遍路」に置き換えられた。
遍路は四季を通じて見られるものであるが、昭和初期より、春の季語として認識されるようになった。遍路が増える季節が春であり、この時期、菜の花や桜の花に、死装束を纏う遍路も映える。季語としての確立には、四国出身の高浜虚子の影響が大きかったとも。
四国遍路は、弘法大師ゆかりの寺院八十八箇所を順に巡るもの。空海42歳の厄年(815年)に開創したものとされているが、その巡礼の確立には諸説ある。有名なものに、衛門三郎伝説がある。
衛門三郎は、四国松山の強欲な豪農。托鉢僧の鉢を割って追い払った時から、8人の子どもが次々に亡くなり、その僧が弘法大師だったと気付くに至る。
弘法大師を探し求めて、霊場を20回も訪ね歩いた衛門三郎は、出会えなかったことから逆打ちするも、力尽きて阿波の焼山寺近くで倒れてしまう。その時はじめて弘法大師が現れ、その腕に抱かれた衛門三郎は非礼を詫び、「来世は河野家に生まれ、善を尽くしたい」と願いを述べて死ぬ。弘法大師が衛門三郎と書いた石を握らせ葬ると、翌年、伊予河野氏に子供が生まれた。その子は、左手に衛門三郎と書いた石を握っていたという。
その石を納めた安養寺は、このことをもって石手寺に改める。現在では霊場有数の規模を持つ寺院となっており、その石は一般公開されている。
因みに、石手寺近くの宝厳寺で生まれた一遍も河野氏一族であり、弘法大師を慕って四国巡礼を行っている。なお、四国遍路は死地へ赴くことであり、白い死装束をまとって巡るものとなっている。
現在のような遍路の整備は、室町時代から、庶民に巡礼の流行があった江戸時代にかけて行われたもので、1950年代より観光バスによる巡礼も行われるようになり、身近になることで遍路ブームを巻き起こした。
現在では、海外からの注目度も高く、世界遺産に推す声も高い。霊場中には、弘法大師の生地である善通寺、弘法大師開眼の地に近い最御崎寺、崇徳天皇陵がある白峰寺などがある。
四国遍路は総行程1400㎞。歩いて40日、自転車で20日、車で10日を要する。一番札所は徳島の霊山寺であるが、これは、上方に近い交通事情に因る。
弘法大師の和歌と伝わるものに、「土佐国室戸といふところにて」の前書きとともに、
法性のむろとといへどわがすめば うゐの浪風よせぬ日ぞなき
【遍路の俳句】
道のべに阿波の遍路の墓あはれ 高浜虚子
夕遍路雨もほつほつ急ぎ足 高野素十