激烈とも評された昭和の代表的女流俳人
1899年12月24日~1972年4月7日。千葉県下埴生郡成田町(成田市)出身。原石鼎・小野蕪子に師事。星野立子・中村汀女・橋本多佳子とともに四Tと称された。「俳句評論」顧問。
その句風は自我を押し出したもので、激烈とも評され、有名な俳句に「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」などがある。
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1899年 | 明治32年 | 12月24日、千葉県下埴生郡成田町(成田市)に末子として生まれる。(*1) |
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1916年 | 大正5年 | 成田高等女学校卒業。上京し次兄の元に寄寓、次兄の影響で和歌を始める。(*2) |
1922年 | 大正11年 | 千葉県館山市に住む剣三の俳号を持つ俳人歯科医・東謙三と結婚。 |
1923年 | 大正12年 | 長男が生まれる。関東大震災で家を失う。 |
1924年 | 大正13年 | 東京府下戸塚に仮寓。夫は歯科医を開業。俳句を始める。 |
1929年 | 昭和4年 | 夫とともに「鹿火屋」に入会し原石鼎に師事。 |
1933年 | 昭和8年 | 牛込に転居し、「牛込句会」を結成。東文恵の俳号を使用。 |
1934年 | 昭和9年 | 原石鼎の病気などを理由に、夫とともに「鹿火屋」を退会、「鶏頭陣」に入会し小野蕪子に師事。東鷹女の俳号を使う。 |
1936年 | 昭和11年 | 「紺」創刊に参加し、女流俳句欄の選者を担当。 |
1939年 | 昭和14年 | 夫ともに「鶏頭陣」を退会。 |
1940年 | 昭和15年 | 第一句集「向日葵」上梓。 |
1942年 | 昭和17年 | 長兄の病死により、東家を廃し三橋家を継ぐ。 |
1952年 | 昭和27年 | 第三句集「白骨」上梓。 |
1953年 | 昭和28年 | 高柳重信の誘いを受けて富沢赤黄男の「薔薇」に同人参加。 |
1958年 | 昭和33年 | 「薔薇」の後継誌「俳句評論」に参加。 |
1970年 | 昭和45年 | 第五句集「橅」上梓。 |
1972年 | 昭和47年 | 4月7日死去。 |
*1 | 父は成田山新勝寺の重役で成田町の助役。 |
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*2 | 当時、夢二の絵に出てくるような美女と噂されていた。 |