とみざわかきお
「俳句は詩である」と言った富澤赤黄男
1902年7月14日~1962年3月7日。愛媛県西宇和郡川之石村(八幡浜市)出身。別号に蕉左右。「旗艦」に加わった時より、新興俳句の担い手と見なされ、モダニズム俳句を追求。高屋窓秋に傾倒し、「俳句は詩である」と宣言。
▶ 富澤赤黄男の俳句
富澤赤黄男俳句全集【電子書籍】[ 富澤赤黄男 ]3000円(税込/送料込)カード利用可・海外配送不可・翌日配送不可【電子書籍なら、スマホ・パソコンの無料アプリで今すぐ読める!】 【楽天Kobo電子書籍ストア】
1902年 | 明治35年 | 7月14日、愛媛県西宇和郡川之石村に開業医の長男として生まれる。(*1) |
---|---|---|
1920年 | 大正9年 | 宇和島中学校卒業。鹿児島の第七高等学校を受験するが、前日に腕相撲で腕を骨折して失敗。 |
1926年 | 大正15年 | 早稲田大学政経学部を卒業(*2)。国際通運(日本通運)東京本社に入社。 |
1928年 | 昭和3年 | 大阪に転勤。故郷の酒造家の次女と結婚。 |
1930年 | 昭和5年 | 父の病の為に退職。国立第二十九銀行(伊予銀行)に転職。俳句同好会「美名瀬吟社」に参加。 |
1932年 | 昭和7年 | 「赤黄男」の俳号で山本梅史の「泉」に投句。(*3) |
1933年 | 昭和8年 | 父の事業失敗のために退職。 |
1934年 | 昭和9年 | セメント重紙袋製造会社を起こし、大坂で工場運営。(*4) |
1935年 | 昭和10年 | 日野草城の「旗艦」同人となる。「新興俳句昭和の問題」を発表。 |
1936年 | 昭和11年 | 妻の実家の酒造会社に入社するも続かず、無職となる。 |
1937年 | 昭和12年 | 召集され、将校として中国で参戦。 |
1940年 | 昭和15年 | マラリアに罹り帰国。 |
1941年 | 昭和16年 | 第一句集「天の狼」刊行。 |
1942年 | 昭和17年 | 北千島に配備される。 |
1945年 | 昭和20年 | 前年召集解除され東京に在ったが、罹災して吉祥寺に移る。 |
1946年 | 昭和21年 | 「太陽系」創刊。栗林一石路らと新俳句人連盟を結成するも分裂。 |
1947年 | 昭和22年 | 現代俳句協会設立に参加。 |
1948年 | 昭和23年 | 「詩歌殿」を水谷砕壺とともに創刊。水谷砕壺の経営する関西タール製品に入社し、東京事務所長となる。「太陽系」を廃し「火山系」を創刊。 |
1952年 | 昭和27年 | 高柳重信らと「薔薇」創刊。 |
1958年 | 昭和33年 | 高柳重信の「俳句評論」に参加。大和化成社長となる。 |
1962年 | 昭和37年 | 3月7日、肺ガンにより死去。享年59。 |
*1 | 富澤赤黄男の本名は富澤正三。宇和島藩の御典医の家系。 |
---|---|
*2 | 在学中に松根東洋城の「渋柿」に投句。 |
*3 | 「赤黄男」は、地元の柿市に因んだ俳号。それまでは「蕉左右」と号していた。 |
*4 | 室戸台風で工場は崩壊。 |