神野忠知

かんのただとも

「白炭の忠知」と呼ばれた江戸の俳人

神野忠知の有名な俳句寛永2年(1625年)~延宝4年(1676年)11月27日。江戸に生まれる。号は沾木子(せんぼくし)。俗称長三郎。井坂春清から俳諧を学ぶ。松江重頼 の佐夜中山集に現れる「白炭ややかぬむかしの雪の枝」の句が有名になり、「白炭の忠知」と呼ばれた。松尾芭蕉も、「先徳多か中にも、宗鑑あり、宗因あり、白炭の忠知ありなん」(初蝉集)と評価している。
文武に長けた人で、常に四書を座右に置く厳格な人物であった。しかし、讒言により汚名を被り、蟄居。主人の愚鈍さが世間に知られることを案じて、何も語らずに割腹自殺したという。享年52。


「鳴雪自叙伝」(内藤鳴雪1922年)に、種彦が書いた「娘金平昔絵草紙」の話があり、そこに忠知が登場する。それによると、料理屋で酒を飲んでいたときに面会人があり、面倒なので家来に自分の名を名乗らせて面会させた。すると家来が盗みを働いたために、同席侍が彼を斬殺した。これにより、忠知は過ちを悔いて自殺したという噂が立ち、表に顔を出すことが出来ぬ身となった。そうこうしているうちに、金平のお金という女と夫婦になる。忠知が、そのお金の親の仇を討つという、勧善懲悪の筋立てになっているという。
「雑談集」(宝井其角1691年)には、以下のようにある。

家を売たるふち瀬にとは、盛衰の至誠をよまれたり。負物いたく成ぬれば、風雅也とても人ゆるさず。されば白炭と聞えし忠知が、
 霜月やあるはなき身の影法師
と辞世して腹切りける。

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