俳句

中村草田男

なかむらくさたお

人間探求派の代表的俳人・中村草田男

1901年(明治34年)7月24日~1983年(昭和58年)8月5日。清国領事の長男として、清国福建省廈門(中国アモイ)に生まれる。本名は清一郎。幼少時に、中村家の本籍地である愛媛県に帰った。水原秋桜子高浜虚子に師事。生活や人間性に根ざした俳句を詠み、人間探求派と呼ばれる。「萬緑」創刊・主宰。俳人協会初代会長。

新興俳句に対しては批判的であり、1934年から始まる「ミヤコホテル論争」では、日野草城との論争の中心に立った。また、第二芸術論や「天狼」の根源俳句論、前衛俳句や山本健吉の「軽み」論をめぐっても激しい論争を繰り拡げ、戦後の俳句論争史では常に急先鋒にあった。
有名な俳句として取り上げられることの多い「降る雪や明治は遠くなりにけり」「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」は、俳句界に大きなセンセーションを巻き起こした。

「ツァラトゥストラかく語りき」を愛読書としたが、カトリック信者であった夫人の影響で、死の前夜に洗礼を受けてカトリック信者となった。あきる野市のカトリック霊園の墓には、「勇気こそ地の塩なれや梅真白」と刻まれている。この句は、「来し方行方」(1947年)所収の俳句で、学徒出陣する教え子に手向けられたものだったという。
有名な句集に「長子」「火の島」「万緑」など。

▶ 中村草田男の俳句



季題別 中村草田男全句 [ 萬緑運営委員会 ]
11000円(税込/送料込)
カード利用可・海外配送不可・翌日配送不可
【楽天ブックスならいつでも送料無料】 【楽天ブックス】

 中村草田男年譜(8月5日 草田男忌)
1901年 明治34年 7月24日、中国アモイに生まれる。(*1)
1904年 明治37年 母とともに本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国。
1908年 明治41年 東京に移り赤坂区青南尋常小学校に通学。
1912年 明治45年 松山に戻る。
1916年 大正5年 松山中学在籍時、伊丹万作らとともに回覧同人誌「楽天」を制作。
1918年 大正7年 神経衰弱にかかり松山中学を1年休学。ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」を愛読書とする。
1925年 大正14年 一家で東京に移転し、4月に東京帝国大学文学部独文科に入学。
1927年 昭和2年 神経衰弱に罹り「平安な時間を持ち続けるための唯一の頼みの綱」となる句作を始め、「草田男」と号する。
1929年 昭和4年 叔母の紹介で高浜虚子に会う。東大俳句会に入会。水原秋桜子の指導を受け、「ホトトギス」9月号に4句入選。
1933年 昭和8年 東京帝国大学卒業。卒論は「子規の俳句観」。卒業後、成蹊学園教師。
1934年 昭和9年 ホトトギス同人。
1936年 昭和11年 結婚。(*2)
1939年 昭和14年 学生俳句連盟機関誌「成層圏」を指導。「俳句研究」8月号座談会への出席をきっかけに、石田波郷加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれる。
1945年 昭和20年 学徒動員通年勤労隊として赴任した福島県安達郡下川崎村で終戦を迎える。
1946年 昭和21年 「成層圏」を母体として「萬緑」創刊。終生主宰。ホトトギスとは距離を置く。
1949年 昭和24年 成蹊大学政経学部教授に就任し、国文学を担当。
1959年 昭和34年 朝日俳壇選者となる。
1960年 昭和35年 現代俳句協会幹事長。
1961年 昭和36年 現代俳句協会内で意見対立が起こり、俳人協会を設立。初代会長に就任。
1965年 昭和40年 成蹊大学文学部教授に就任。
1967年 昭和42年 成蹊大学を定年退職後、非常勤講師となる。
1969年 昭和44年 成蹊大学名誉教授となる。
1972年 昭和47年 紫綬褒章。
1974年 昭和49年 勲三等瑞宝章。
1978年 昭和53年 芸術選奨文部科学大臣賞。
1983年 昭和58年 8月5日、急性肺炎のため東京都世田谷区北烏山の病院で死去。82歳。死の前日に洗礼名「ヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎」。東京都あきる野市五日市霊園に眠る。(*3)
*1 清国福建省廈門にて清国領事中村修の長男として生まれる。本名清一郎(せいいちろう)。
*2 4女をもうける。
*3 没後の1984年に日本芸術院恩賜賞が贈られた。

中村草田男は、高浜虚子に師事。石田波郷加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」創刊・主宰。初代俳人協会会長。
戦中の俳句「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」は、戦後「草田男の犬論争」を巻き起こした。