天明の中興五傑のひとり大島蓼太
享保3年(1718年)~天明7年9月7日(1787年10月17日)。信濃国伊那郡本郷村(長野県上伊那郡飯島町)出身。幕府の御用縫物師。本姓は吉川、諱は陽喬、通称は平助。別号に雪中庵・里席・宜来・老鳥・豊来・空摩など。雪中庵二世桜井吏登の門人。雪中庵を継承し三世となる。3000人を超える門人をかかえた。
「雪おろし」により江戸座を批判。芭蕉への復帰を唱え、明和8年(1771年)には深川(深川要津寺)に芭蕉庵を再興、芭蕉翁七十回忌には芭蕉像を納めた俤塚をつくり、死後はその脇に葬られた。
白隠和尚に参禅し、宝暦9年(1759年)「隻手音声」の公案の印可を受けた。白隠に俳諧を問われた時、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を示したというが、揮毫を頼むと白隠は、「古井戸や~」と書き始めた。慌てて指摘すると白隠は、「古池でも古井戸でも、水の音には違いはない」と答えたという。
俳諧史上稀有の名声を得るも、正岡子規が「獺祭書屋俳話」(1895年)に「俗気紛々たる句多し」と評して以来、評価は下がった。
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