俳句

桑岡貞佐

くわおかていさ

赤穂浪士との交流で知られる俳人

寛文12年(1672年)~享保19年(1734年)9月12日。江戸(東京都)出身。名は永房。はじめ了我(りょうが)といったが、還俗して平三郎と名乗る。宝井其角に師事し、貞佐・桑々畔(そうそうはん)と号した。貞節律儀な人物として知られ、江戸座の中心人物として活躍した。

後に討ち入りをする赤穂藩士、萱野重実(子葉)・神崎則休(竹平)・富森助右衛門(春帆)・吉田忠左衛門(白砂)との交流でも知られる。討ち入り前の元禄14年(1701年)には、水間沾徳と京都へ旅し、音信を断っていた竹平と偶然出会った。貞佐は竹平の身を案じつつ、俳諧仲間との交流は続いているのかと尋ねた。その時に絶交したと言っていた春帆と、これまた偶然に両国橋で出会う。たまらずに仲立ちを申し出ると春帆は、「飛んで入る手にもたまらぬ霰かな」の句を披露。その3日後に討ち入りが決行され、ようやく真意を知ったという。
討ち入りの暁には、朝湯に浸かっていたところで事件を知り、持ち合わせがなかったために、拝領の着物を質に入れて酒を得た。それを持って赤穂浪士が籠る泉岳寺に行き、差し入れを請うた。帰路、拝領の着物を質に入れてしまった詫びをしようと殿を訪ねたところ、篤実な性格が賞美され、さらに上等な着物を授かったという。

辞世は「中椀に白がゆ盈てり十三夜」。遺書の外題に弟子が「野分跡」と入れたが、かつて「何事もなき野分跡」と詠んで、上五を省いたことに因る。

▶ 桑岡貞佐の俳句

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