びいとなく しりごえかなし よるのしか
死のひと月前に詠まれた芭蕉句の面白さ
「笈日記」(各務支考編1695年)にある松尾芭蕉の句。笈日記には下記のようにある。
船をあがりて、一二里がほどに日をくらして、猿沢のほとりに宿をさだむるに、はい入て宵のほどをまどろむ。されば曲翠子の大和路の行にいざなふべきよし、しゐて申されしが、かゝる衰老のむつかしさを、旅にてしり給はぬゆへなるべしと、みづからも口おしきやうに申されしが、まして今年は殊の外によはりたまへり。その夜はすぐれて月もあきらかに、鹿も聲々にみだれてあはれなれば、月の三更なる比、かの池水のほとりに吟行す。
ひいと啼尻聲かなし夜の鹿 翁
鹿の音の糸引はえて月夜哉 支考
また、元禄七年九月十日付の杉風宛書簡には、下記のようにある。
夏より七月迄之御状、尤遅速御座候へ共、段々無相違相達し候。久々伊賀に逗留故、便りも不到候。無心元元被存候。愈御無事に御勤御家内相替事無御座候哉、承度存候。お三女祝言、当月中に而可有御座と推量申候。定而御取込可被成候。定而首尾能相調可申と御左右待入候。
一、拙者先は無事に長の夏を暮し、漸々秋立候而、傾日夜寒の比に移候。いかにも秋冬間無恙暮し可申様に覚候間、少も御気遣被成まじく候。追付参宮心がけ候故、先大坂へむけ可出申去ル八日に伊賀を出候而、重陽の日南都を立、則其暮大坂へ至候而、洒堂方に旅宿、假に足をとゞめ候。名月は伊賀に而見申候。発句は重而可懸御目候。
菊の香やならには古き仏達
菊の香やならは幾代の男ぶり
びいと啼尻聲悲し夜ルの鹿
いまだ句躰難定候。他見被成まじく候。追付爰元逗留之句共、可懸御目候。早々御状御こし可候成候。其元両替丁かするが町酒店にて稲寺や十兵と申もの、爰元伊丹屋長兵へ店にて候間、早々御左右承度候。子珊秋の集被催候や。左候はゞ爰元の俳諧一巻下し可申候。上方筋、別座敷・炭俵にて色めきわたり候。両集共手柄を見せ候。少は桃隣にも師恩貴キすべをわきまへ候へと、御申成候べく候。桃隣俳諧俄に替上り候と専沙汰にて候。急便早々
九月十日 はせを
杉風様
尚ゝ四五日中に又々委可申進之候。先大坂へ出候を御しらせの為、早々申残し候。
「びいと啼く尻声悲し夜の鹿」は、故郷の伊賀から大坂に向かう途中、元禄7年(1694年)9月8日(旧暦)に、奈良で詠まれた。
芭蕉は、9月10日に大阪で体調を崩し、ひと月後に亡くなっている。笈日記を見ると、この時すでに体調を崩していたのではないかと思われる。
芭蕉らしい侘の世界の中に置かれた句であるため、「ビーとあとを引く声で恋に鳴く夜の鹿は、あわれで悲しいことよ…」というような感じの意味だと紹介される。けれどもそれではストレート過ぎて、ありきたりで面白みに欠ける。
芭蕉は胃腸を悪くして亡くなったと言われている。下品ながらも、「ビー」は「尻声」に掛けられたものなのではないかと思う。9月10日の杉風宛書簡に「菊」や「仏」が並べ置かれたのも、文面では平静を装いながらも、迫りくる死の足音を暗に示し、「びいと啼く尻声悲し夜の鹿」に、病状を表したのではないだろうか。
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