俳句

草の戸も住替る代ぞひなの家

くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ

芭蕉庵への別れの一句

草の戸も住替る代ぞひなの家松尾芭蕉、1689年(元禄2年)3月27日(新暦1689年5月16日)から9月6日(新暦10月18日)までの紀行文「おくのほそ道」の序文にある句。
長旅になる「おくのほそ道」に備えて、それまで住んでいた深川芭蕉庵を他人に譲り、杉風の別邸(杉山杉風の採荼庵)に移った時の句。「面八句を庵の柱に懸置く」とあるから、この句を含む百韻のはじめの八句を、離れていく芭蕉庵に留めておいたのだろう(移り住んだ採荼庵に懸け置いたとの説もある)。現在では、その他の句が何であったのかは、分かっていない。
譲った相手は、知人の兵右衛門。妻と娘と孫がある兵右衛門に譲った芭蕉庵で、雛祭りが行われていたのだろう。

この句の意味は「住人が変われば粗末な家も、雛を飾って華やかになるものだな…」といった感じで、しみじみとした思いが、時を超えて伝わってくる。住処を譲ったということは、「おくのほそ道」に骨を埋める覚悟あってのことであり、「住替る代」に、自らの最後をイメージしている。

以下、有名な「おくのほそ道」序章。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
 草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。

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句評「草の戸も住替る代ぞひなの家」

蓑笠庵梨一「奥細道菅菰抄」1778年

頃は二月末にて、上巳のせちに近き故に、雛を商ふもの、翁の明キ庵をかりて売物を入、置所となせしによりて、此吟ありと云。勿論雛の家箱は、あるは二つの人形を一箱になし、或は大小の箱を取かへなど、年々其収蔵の定なきものなれば、年年歳歳花相似、歳歳年年人不同、の心ばえにて、人生の常なきを観想の唫なるべし。

江東区芭蕉記念館の句碑(東京都江東区)

草の戸も住替る代ぞひなの家江東区芭蕉記念館は、昭和56年(1981年)4月19日に開館した。芭蕉遺愛の石の蛙など、芭蕉ゆかりの資料を展示している。
「草の戸も住替る代ぞひなの家」の句碑は、正面の門をくぐると、最初に目に飛び込んでくるものだ。昭和59年(1984年)10月12日、芭蕉忌に江東区が建立。揮毫は、当時の江東区長小松崎軍次氏である。

この句が詠まれたかつての芭蕉庵は、南に300mほど行ったところにある芭蕉稲荷付近にあったと言われている。移り住んだ杉風が別墅(採荼庵)は、ここから南東に1㎞ほどのところにある。
【撮影日:2018年4月16日】

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