俳句

むざんやな甲の下のきりぎりす

むざんやな かぶとのしたの きりぎりす

むざんやな きりぎりすになった英雄

むざんやな甲の下のきりぎりす松尾芭蕉、1689年(元禄2年)の「おくのほそ道」の「小松」に現れる句。曾良旅日記では、7月25日(新暦9月8日)に、多田八幡に詣でて斎藤実盛の甲冑と、木曾義仲願書を拝んだとある。この日は快晴も、夕方に雨が降っている。
斎藤実盛とは、「平家物語」に「実盛最期」として一章を成す越前出身の武将で、木曾義仲を育てた。しかし平氏に仕え、木曾義仲追討のため北陸に出陣し、加賀国の篠原の戦いで討ち取られた。最後の戦いと覚悟していた実盛は白髪を黒く染めており、はじめはその正体が分からなかったが、首実検で実盛と知った義仲は涙を流したという。この時、部下の樋口次郎が「あな無慙。長井斎藤別当にて候ひけり」とつぶやいている。謡曲「実盛」では、「あな無残やな。斎藤別当にて候ひけるぞや」。

ところで、ここに現れる「きりぎりす」は、今にいうキリギリスではなく、コオロギのこと。このコオロギが、実盛に同情して泣いていると解釈され、この句の意味は、「無残な歴史があったものだな、なあ、甲の下で鳴く蟋蟀よ」というような感じで解釈されることが多い。
けれども、実盛は稲を食い荒らす害虫になったとの伝承があり、コオロギに形が似ているイナゴを実盛に見立てて詠んだ句だと考えると、時の流れが英傑を害虫に貶めた無残が浮き上がる。

はじめは「あなむざんや甲の下のきりぎりす」だったと考えられており、「卯辰集」には以下のように載る。

多田の神社にまふでゝ、木曾義仲の願書並実盛がよろひかぶとを拝ス。三句。
 あなむざんや甲の下のきりぎりす 翁
 幾秋か甲にきへぬ鬢の霜 曾良
 くさずりのうら珍しさ秋の風 北枝

また、猿蓑には「むざんやな甲の下のきりぎりす」で載るが、「加賀の小松と云処、多田の神社の宝物として、実盛が菊から草のかぶと、同じく錦のきれ有。遠き事ながらまのあたり憐におぼえて」の詞書がある。
以下は「おくのほそ道」より。

  小松と云所にて
 しほらしき名や小松吹萩すゝき
此所、太田の神社に詣。実盛4が甲、錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
 むざんやな甲の下のきりぎりす

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