俳句

俳句の歴史

俳句の歴史はいつから始まったのか?

「俳句」は、「俳諧」から生まれた。俳諧の発句が独立したものだと解釈され、江戸時代に興隆したものだと考えられているが、それを文芸として、本格的に整備したのは正岡子規である。正岡子規と俳句の歴史
本来ならば、芭蕉句など子規出現以前に作られたものと、子規以降の「俳句」は区別して味わう必要がある。子規以前のものは、「面白み」を追求する俳諧の連歌の一部だということを念頭に置くと、違う側面が見えてくることがある。しかし子規は、俳句を芸術作品として昇華させるために、「月並」という言葉で過去を否定し、句のとらえ方を根本的に変えてしまった。

現代では、座の文芸ということを意識せずに、「俳句」を個人で楽しむことができる。森羅万象を定型詩として、個人の美意識のもとに置くことができるようになったのである。



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子規以降の俳句の歴史(近代俳句史)

1895年 明治28年 正岡子規が新聞日本紙上に「俳諧大要」発表(10月22日~12月31日)。12月9日、高浜虚子が子規の後継者となることを拒否した道灌山事件が発生。
1897年 明治30年 1月15日、柳原極堂が、子規の俳句運動を後援するために俳句雑誌「ほとゝぎす」を松山で創刊。
1898年 明治31年 10月に「ほとゝぎす」を東京に移して、虚子が継承する。
1902年 明治35年 9月19日、正岡子規没する。
1903年 明治36年 10月、当時俳壇の中心にいた河東碧梧桐の「温泉百句」を批判したことから、碧梧桐と虚子との間に「温泉百句論争」が起こる。
1911年 明治44年 4月、荻原井泉水が自由律俳誌「層雲」を創刊。碧梧桐が合流する。
1913年 大正2年 2月、小説に没頭していた虚子が、碧梧桐の新傾向俳句に対抗して「守旧派」を宣言して俳壇に復帰。
1915年 大正4年 3月、「層雲」を離脱した河東碧梧桐が「海紅」を結成。5月12日、大須賀乙字が「海紅」を離脱することとなった傷害事件「海紅堂事件」が発生。
1918年 大正7年 佐々木綾華らが「破魔弓(のちの馬酔木)」創刊。
1928年 昭和3年 4月21日の講演会で、虚子が「花鳥諷詠」を提唱した(昭和2年6月1日の山茶花句会の講演からとも)。9月の山口青邨の講演で、山口誓子阿波野青畝高野素十水原秋桜子の「ホトトギスの4S」が誕生。
1931年 昭和6年 水原秋桜子が「馬酔木」1931年10月号に「自然の真と文芸上の真」を発表し、反ホトトギスを旗印とした新興俳句運動の流れの起点となる。
1935年 昭和10年 1934年に日野草城が発表した「ミヤコホテル」から、ミヤコホテル論争起こる。
1939年 昭和14年 「俳句研究」8月号座談会への出席をきっかけに、石田波郷、中村草田男、加藤楸邨が人間探求派と呼ばれる。
1940年 昭和15年 新興俳句弾圧事件(~1943年)。京大俳句事件を契機とする。
1946年 昭和21年 桑原武夫が「世界」1946年11月号に「第二芸術―現代俳句について」を発表。
1947年 昭和22年 第二芸術への反論として「現代俳句の為に(孝橋謙二編)」刊行。9月、石田波郷を中心として現代俳句協会を設立。「草田男の犬論争」発生。
1948年 昭和23年 山口誓子が「天狼」創刊号で「根源俳句」を提唱。現代俳句協会が茅舎賞(現代俳句協会賞)を創設。
1950年 昭和25年 境涯俳句の金字塔「惜命」(石田波郷)が発表されるが、同時に「霜の墓論争」起こる。
1952年 昭和27年 角川「俳句」創刊。
1953年 昭和28年 「俳句と社会性の吟味」(大野林火)で社会性俳句論議が始まる。
1957年 昭和32年 「俳句の造型について」(金子兜太)により造型論発展。
1961年 昭和36年 第9回現代俳句協会賞選考紛糾を起因として、現代俳句協会から伝統派が脱退し、中村草田男を会長として俳人協会設立。
1967年 昭和42年 角川書店が「蛇笏賞」を創設。
1987年 昭和62年 稲畑汀子を会長として日本伝統俳句協会設立。
1989年 平成元年 「おーいお茶俳句大賞」スタート。現代俳句協会・俳人協会・伝統俳句協会が協力して、国際俳句交流協会設立。
1998年 平成10年 第1回俳句甲子園。