俳句

蓬莱に聞ばや伊勢の初だより

ほうらいに きかばやいせの はつだより

蓬莱に聞ばや伊勢の初だより元禄7年(1694年)、松尾芭蕉 の歳旦句。炭俵(1694年)所収。春部之発句立春に分類される。この年の冬、芭蕉は大坂で没する。
句の中の「蓬莱」とは、正月の蓬莱飾りのことであり、それに耳を寄せると、芭蕉の故郷にも近い伊勢の神々しい初便りが聞こえてきそうだという意味である。
この句は、元禄7年正月29日付の曲翠宛の年賀状に対する返書に、以下のように見られる。

年始之貴墨、忝到拝見候。愈御無異、御家内・御子達御息災に御重年之事共、珍重候。愚夫不相替春をむかへ申候。
当年は武府之俳者、新三つ物共出し候とてさはぎののしり申候へ共、正秀には我を折申し候。愚句京板にて御覧可被成候へ共、
 蓬莱にきかばや伊勢の初便
伊勢に知人音づれてたよりうれしきとよみ侍る慈鎮和尚の歌より、便りの一字をうかがひ候。其心を加へたるにては無御座、唯、神風やいせのあたり、清浄の心を初春に打さそひたるまでにて御座候。
去年は当府に御入、初春の出合、初笑の興もめづらしく候へば、一入ことし御なつかしく奉存候。まれまれなる雑煮を御振舞申候。ことしは御宿にて御あぐみ候ほど、おうはさしいで被申候。委細後便可申上候。頓首
   正月廿九日 はせを
  曲翠雅公
 竹助殿御成長、其妹御、見ぬ内より御なつかしく候。御染女、御息災たるべく候。

また、元禄7年2月25日付の森川許六宛書簡に、次のように見える。

愚句は、子共のけしきあれたる躰に見請候へば、一等鎮め候而目にたたせず候。彼いせに知人音信てたより嬉しきとよみ侍る、便り一字を取つたへたる迄にて候。

元禄7年正月二十日付の意専宛書簡では、京都の井筒屋庄兵衛発行の歳旦帳に載ったことが分かり、以下のようにある。

愚句京板に出候而、門人の引付ごとに書とられ候間、いづれにて成共御覧可被成と、書不申候。便り一字、慈鎮和尚より取伝へ申候。

ここに言う慈鎮和尚の詞とは、拾玉和歌集の「此たびは伊勢の知る人音づれて 便りうれしき花柑子かな」。この句は、向井去来の「去来抄」において一番に取り上げられている。


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句評「蓬莱に聞ばや伊勢の初だより」

向井去来「去来抄」170?年

深川よりの文に、此句さまざまの評あり、汝いかが聞侍るやとなり。去来曰、都又は故郷の便ともあらず、伊勢と侍るは元日の式の今やうならぬに神代をおもひいでて、たより聞ばやと、道祖神のはや胸中をさはがし給ふとこそ承り侍れと申す。先師返事に、汝が聞く処にたがはず、今日神のかうがうしきあたりをおもひ出で、慈鎮和尚の詞にたより、初の一字を吟じ、清浄のうるはしきを蓬莱に対して結びたる也と。

花園神社の句碑(東京都新宿区)

蓬莱に聞ばや伊勢の初だより内藤新宿の総鎮守である花園神社は、大和吉野山より勧請された神社で、江戸時代には花々が咲き乱れていたという。その境内社である威徳稲荷神社横に、この句碑がある。安永7年(1778年)仲秋、内藤新宿惣旅籠中の建立であり、社殿が消失した安永9年(1780年)、文化8年(1811年)の大火にも耐え忍んできたもの。

碑文は、「翁尾州名古屋に春をむかへ其ころの当社院主ことにしたしかりけれは文通に此発句を書そへおくられしよしつたへ聞いて今こゝにしるしとゝむ 蓬莱にきかはや伊勢の初たより」。
この文言が正しければ、この句の成立が、芭蕉最晩年との通説を覆すことになる。
【撮影日:2019年12月13日】

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