俳句

古池や蛙とびこむ水の音

ふるいけや かわずとびこむ みずのおと

俳句の世界を切り開いた不易流行の代表句

古池や蛙とびこむ水の音(蕪村画:其雪影)1686年(貞享3年)閏3月刊行の「蛙合」に初出の句。松尾芭蕉が、この年に、深川芭蕉庵で行われた句合で詠んだものと考えられている。42歳で詠んだこの句を、芭蕉は、自身の説く「不易流行」の代表句と捉えた。門人の各務支考は、「情は全くなきに似たれども、さびしき風情をその中に含める風雅の余情」と評している。


和歌の世界においては、蛙は鳴き声を愛でるものだが、この句は、生活音ともいえるものを持ってきた。そこに、俳諧としての面白みが生じる。
本来ならば雑音とも言えるその音は、「古池」の存在感によって「静けさ」に昇華されている。鳴き声以上に普遍的な、気にもかけないような音。それを鑑賞の対象にしたところに、「不易流行」の本質があるのだろう。

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句評「古池や蛙とびこむ水の音」

竹内玄玄一「俳家奇人談」1816年

これまつたく王維が妙境、紙筆に説きがたし。

正岡子規「俳諧大要」1895年

作者の理想は閑寂を現はすにあらんか、禅学上悟道の句ならんか、あるいはその他何処にかあらんなどと穿鑿する人あれども、それはただそのままの理想も何もなき句と見るべし。古池に蛙が飛びこんでキヤブンと音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものなり。

高浜虚子「俳句はかく解しかく味わう」1918年

芭蕉の句といえば先ず古池の句というほどに有名なものになっているが、この句は果してそれほどいい句であるかどうかという事については已に大分議論のあったことである。実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。(中略)柳緑花紅が仏者の悟りであるように敢てものを遠きに求めるわけでもなく、実情実景そのままを朴直に叙するところに俳句の新生命はあるのであると大悟して、それ以来、今日に至るまでいわゆる芭蕉文学たる俳句は展開されて来たものとすれば、この古池の句に歴史的の価値を認むべきは否定することの出来ないことである。

深川芭蕉庵跡とされる芭蕉稲荷境内の句碑(東京都江東区)

古池や蛙とびこむ水の音この句碑がある芭蕉稲荷の辺りで、松尾芭蕉は「古池や蛙とびこむ水の音」の句を詠んだと言われている。近くにそれらしき池は無い上、運河の如き隅田川には大きな船が浮かび、当時の情景に思いを馳すのは難しい状況ではあるが…

松尾芭蕉は、蕉門十哲の一人で幕府御用魚問屋鯉屋の主・杉山杉風に、草庵の提供を受けている。延宝8年(1680年)から晩年の元禄7年(1694年)までを過ごした場所は、深川芭蕉庵という。
深川芭蕉庵と言っても一処ではない。延宝8年(1680年)から江戸の大火で焼け出されるまで住んだ場所を第一次芭蕉庵と言い、杉風の生簀の番小屋だったとも。天和3年(1683年)から奥の細道の旅に出るまで住んだ場所・第二次芭蕉庵は、山口素堂らの寄贈によるもので、ここで「古池や蛙とびこむ水の音」の句は生まれた。元禄2年(1689年)から晩年まで住んだ場所・第三次芭蕉庵は、第二次芭蕉庵近くに杉風らの尽力で成り、池を前面にして3部屋あった。
没後3年の元禄10年に、松平遠江守の武家屋敷に取り込まれ旧蹟として残されていたが、幕末の混乱下で場所が分からなくなっていた。ところが、大正6年9月30日の高波(伝:大正6年の大津波)により、芭蕉の愛でた石蛙が現われたことで、その場所を推定することが可能になった。石蛙が現われた場所には芭蕉稲荷が祀られ、翌年には、辺り一帯が旧跡に指定された。発見された石蛙は、当初は御神体として祀られていたが、現在では北に300mほど行ったところにある江東区芭蕉記念館に展示されている。
芭蕉稲荷境内には、平成6年建立のこの「古池や蛙とびこむ水の音」の句碑の他、昭和56年建立の「芭蕉庵跡」碑、平成元年建立の「奥の細道旅立参百年記念碑」などがある。
【撮影日:2018年4月16日】

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