俳句

凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり

およそてんかに きょらいほどのちいさきはかに まいりけり

向井去来の墓ホトトギス500号記念出版の高浜虚子「五百句」(1937年)所収の虚子の俳句。明治41年(1908年)8月23日の第21回日盛会で発表されたもの。場所は東京の虚子庵隣の寒菊堂。河東碧梧桐の俳三昧に対抗する修練の場であった。
この日の席題は「墓参」。京都嵯峨野にある向井去来の墓の小ささを、微笑ましく謳ったものであり、東京で詠んだものだとすれば、その小ささはは余程印象に残ったのだろう。実際に、去来の庵であった落柿舎裏にある墓は、40㎝ほどの自然石に「去来」とのみ刻み込まれたものである。
同じ日の俳句に「由公の墓に参るや供連れて」「此墓に系図はじまるや拝みけり」。由公とは、芭蕉の眠る義仲寺に葬られている木曽義仲のことだと言われている。
他日虚子には、「去来忌やその為人拝みけり」「去来忌や俳諧奉行今は無し」の俳句もある。


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嵯峨野の落柿舎にある句碑(京都市右京区)

凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり貞享2年(1685年)ころから向井去来が別荘とした落柿舎は、松尾芭蕉も3度滞在し、「嵯峨日記」を記した場所。北方へ100メートルほど行った西行井戸の入り口付近の嵯峨野小倉山弘源寺墓苑内に、件の墓がある。去来が没したのは宝永元年9月10日(1704年10月8日)。
現在の庵は、明和7年(1770年)に再建されたもの。この句が詠まれた直前に虚子がここを訪問したかは定かでないが、京都第三高等中学校在学中など、生涯に幾度か訪問したことは確かである。

凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり
虚子の生前最後の自筆句碑であり、破調吟としてよく知られている。建立は昭和三十四年。

【撮影日:2019年12月30日】

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