松尾芭蕉のたどった道|その俳諧紀行文と概要
紀行文の金字塔として知られる「おくのほそ道」をはじめ、松尾芭蕉の紀行文には「野ざらし紀行(甲子吟行)」「鹿島紀行(鹿島詣)」「笈の小文(卯辰紀行・芳野紀行)」「更科紀行」が知られている。「おくのほそ道」序文に「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」とあるように、旅に生きた俳人である。
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野ざらし紀行|1684年秋~1685年夏(41歳~42歳)
1685年(貞享2年)成立。芭蕉死後の1768年(明和5年)に刊行。真蹟本として、天理本と藤田本がある。芭蕉が定めたタイトルは無く、「甲子吟行」「芭蕉翁甲子の紀行」「芭蕉翁道乃紀」「草枕野ざらし紀行」などともいう。
貞享元年(1684年)秋から貞享2年(1685年)夏にかけての関西方面への旅の内容を記した紀行文で、門弟の苗村千里が、千里の故郷の大和国葛下の郡竹の内まで随行。天和3年(1683年)6月20日に亡くなった母の墓参も目的とした旅で、芭蕉はじめての紀行文となった。
道中、尾張連衆と歌仙を巻き、後に俳諧七部集の一つ「冬の日」が成るなど収穫の多い旅で、蕉風を確立した旅でもあった。
▶ 野ざらし紀行の日程表と詠まれた句
▶ 「野ざらし紀行」超現代語訳と原文および解説
鹿島紀行|1687年秋(44歳)
真蹟本として、佐藤本と天理本があり、佐藤本は「鹿島詣」として1752年(宝暦2年)に刊行されたものが古い。天理本は杉山杉風の家に伝わったもので、1790年(寛政2年)に「かしま紀行」として刊行されている。
貞享4年(1687年)8月に、芭蕉の禅の師である仏頂和尚の招きに応じ、仲秋の名月を鑑賞するために鹿島を訪れた時に成った紀行文。門人の曾良・宗波が随行した。8月14日に芭蕉庵から舟で発ち、鹿島神宮などを参拝した。8月25日までの記録である。生憎、仲秋の名月は雨で鑑賞することができなかった。
▶ 鹿島紀行の日程表と詠まれた句
笈の小文|1687年冬~1688年夏(44歳~45歳)
河合乙州が芭蕉の遺構を「笈の小文」としてまとめ上げ、1709年(宝永6年)に刊行した。蕉門の理想の作品集を、芭蕉が同名で編集しようとしていたため反発もあり、「卯辰紀行」「芳野紀行」「大和紀行」「須磨紀行」などと呼ばれることもある。
貞享4年(1687年)10月25日に江戸を出発、貞享5年(1688年)4月23日に京都に入った。貞享5年(1688年)2月18日の、故郷・伊賀上野での亡父三十三回忌法要が大きな目的であり、途中で越智越人らを伴うなどした名古屋・関西方面を中心にした旅で、須磨・明石まで足をのばした。
芭蕉の世界観を知るためには欠かすことのできない俳諧紀行文となっている。
更科紀行|1688年秋(45歳)
芭蕉存命の1688年(元禄元年)から1689年(元禄2年)ころに成立したと考えられているが、「更科紀行」は芭蕉の命名であるかは分かっていない。岱水の「きその谿」(1703年)で最初に紹介され、1709年(宝永6年)に「笈の小文」の付録として乙州が編集した。「笈の小文」の旅の続きを記した紀行文である。
貞享5年(1688年)8月11日に越智越人と山本荷兮の奴僕を伴って美濃を出発し、更科の月見に赴き、姥捨山の月を愛でた。8月下旬には江戸に帰った。
おくのほそ道|1689年春~秋(46歳)
中尾本・曾良本・柿衞本・西村本の原本が伝わっており、芭蕉死後、1702年(元禄15年)に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。なお、西村本の題簽は芭蕉の自筆で、芭蕉が携えていたものが兄の半左衛門・去来と渡って行き、福井の西村家の所蔵となったもの。中尾本は、1996年に発掘された芭蕉自筆本とされるもので、野坡本とも呼ばれる。
1689年(元禄2年)3月27日に河合曾良を伴って江戸を発ち、松島の月を見たいと東北へと旅立った。旅は、東北の月山・象潟などを巡った後、北陸へと入り大垣を経て、9月6日に、伊勢神宮の遷宮を拝もうと足を向けるところで終了する。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という序文に始まる紀行文の中に、数多くの名句が散りばめられている。俳句の道標ともなってきた、日本文学の白眉であるとともに、世界に誇る紀行文の金字塔である。
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