愛媛県内 俳句の舞台となった旅館
道後温泉 ふなや愛媛県下一の格式を持った旅館として知られる「ふなや」は、俳句と縁が深い旅館。正岡子規が「亭ところどころ渓に橋あるもみじかな」と詠み、夏目漱石は念願かなって「はじめての鮒屋泊りをしぐれけり」と詠んだ。「ふなや」での会食を「漱石氏と私」としてまとめた高浜虚子は、「ふるさとに花の山あり温泉あり」と詠んでいる。また、館内には山頭火の句碑などがあり、荻原井泉水・水原秋桜子・富安風生ら、多くの俳人が宿泊している。
愛媛県の御当地季語
湯祈祷(春の季語)3月19日から22日に道後温泉で行われる「道後温泉まつり」。
伊予柑(春の季語)1885年に山口県で発見され、元は穴門みかんなどと呼ばれていた。愛媛県でも栽培をはじめ「伊予ミカン」として出荷していた。1955年に松山市で発見された「宮内伊予柑」により、人気が定着した。
伊予簾(夏の季語)上浮郡露峰産の篠竹で編んだ、古くから知られた高級簾。
宇和鰯(秋の季語)真鰯を塩蔵したもので、「宇和島鰯」ともいう。
愛媛県を詠んだ俳句
寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉 小林一茶1795年、西国俳諧修行の旅で、松山の栗田樗堂を訪ねた。「寛政七年紀行」2月1日には、「道後温泉の辺りにて」の前書きがある。子規記念博物館の前に句碑がある。
松山や秋より高き天主閣 正岡子規帝国大学在籍中の明治24年(1891年)秋の俳句。「寒山落木巻一」に「松山城」として載る。
春や昔十五万石の城下哉 正岡子規「寒山落木巻四」の明治二十八年の項に、「松山」の前書きで収録されている俳句。日清戦争の従軍記者として、戦地に赴く途中で詠まれた。
若鮎の二手になりて上りけり 正岡子規「寒山落木巻一」明治廿五年に、「石手川出合渡」として載る俳句。現在の松山市出合橋付近。
遠山に日の当たりたる枯野かな 高浜虚子「五百句」に「明治三十三年十一月二十五日 虚子庵例会」とある1900年の俳句。自解に「松山の御宝町のうちを出て道後の方を眺めると、道後のうしろの温泉山にぽっかり冬の日が当たっているのが見えた」とある。
おちついて死ねそうな草萌ゆる 種田山頭火昭和15年(1940年)3月12日の「松山日記」にある句。半年後、松山の一草庵で命を閉じた。