カテゴリー: 季語
季語|落鮎(おちあゆ)
季語|鮎(あゆ)
三夏の季語 鮎
年魚(ねんぎょ)・香魚(こうぎょ)
キュウリウオ目に分類されるアユは、成魚は川で生活し、稚魚は海で生活する。秋に川を下って河口域に産卵し、孵化して5㎝程度に育ったアユは、春に川を遡上する。石についた藻類を食べることにより独特の香りを放ち、香魚とも呼ばれる。また、一年で一生を終えることから年魚とも呼ばれる。水産資源保護の観点から、11月から5月は禁漁になる。
古くから親しまれてきた魚で、古事記の神功皇后条には、卯月上旬に筑紫の末羅県の玉島の里の小河(佐賀県唐津市の玉島川)で、「年魚」釣りを行ったとある。日本書紀にはさらに、アユを「細鱗魚」と表し、その釣りにより新羅遠征を占ったとある。このことからアユに「鮎」の字が当てられたと見られるが、奈良時代までの「鮎」は、中国同様ナマズを指す漢字だったと言われている。万葉集には8種の魚が登場するが、中でもアユは、最多の16首が詠まれている。大伴旅人を中心とした「松浦河に遊ぶ」と題された歌群には、神功皇后以来の末羅県(松浦)における鮎釣りの行事が詠み込まれている。
松浦川川の瀬光り鮎釣ると 立たせる妹が裳の裾濡れぬ
なお、アユの語源は、神前に供える食物「饗(あえ)」にあるとする説が有力。
「鮎」では、6月1日の鮎漁解禁の日を含む夏の季語となるが、「若鮎」は春の季語、「錆鮎」は秋の季語となる。
季語|時雨忌(しぐれき)
初冬の季語 時雨忌
芭蕉忌(ばしょうき)・翁忌(おきなき)・桃青忌(とうせいき)・芭蕉会(ばしょうえ)・翁の日(おきなのひ)
陰暦10月12日。俳聖・松尾芭蕉の忌日。元禄7年(1694年)10月12日に、大坂御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷でその生涯を閉じた。遺骸は近江の義仲寺に運ばれ、木曾義仲の墓の隣に葬られた。死の4日前に詠んだ
旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる
が最後の句となり、これを辞世と見る向きもある。
季語|時雨(しぐれ)
季語|コスモス(こすもす)
仲秋の季語 コスモス
メキシコ原産、キク科の一年草。メキシコからスペインに渡り、コスモスと名づけられた。日本には明治12年に、イタリアから渡来。コスモスとは、ギリシャ語で秩序ある世界の意味で、宇宙を表す。「秋桜」の表記は、さだまさし作詞作曲の「秋桜」で初めて用いられた。花言葉は「真心」。
季語|狗尾草(えのころぐさ・えのこぐさ)
三秋の季語 狗尾草
犬ころ草(いぬころぐさ)・猫じやらし(ねこじゃらし)・ゑのこ草(えのこぐさ)
イネ科。語源は、小犬の尾に似ているところから。「イヌコロ」は、「犬来よ」から来ているとの説もある。
寛弘3年(1006年)、阿波の鳴門が鳴動し天変地異が起こった折、横山八幡宮神官が鳴門に赴き
山畠に作りあらしのえのこ草 粟のなるとは誰かいふらむ
と詠じると、元の静かな海に戻ったという。これを喜んだ帝に召された神官は、
我が国に年経し宮の古ければ 御幣の串の立つところなし
と応えると、帝は「宮の古ければ」の一節をとり、横山八幡宮一帯を「宮古」の地名に改めたという。
季語|行く秋(ゆくあき)
季語|葵(あおい)
仲夏の季語 葵
アオイ目アオイ科の植物には、タチアオイ、ムクゲ、ハイビスカス、フヨウのほか、オクラやワタにいたるまで、多くの種類がある。日本には、タチアオイが薬用として古くから渡来していたと考えられている。万葉集にはよみびと知らずの歌として、
梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の 後も逢はむと葵花咲く
がある。また、新古今和歌集では式子内親王が、
忘れめやあふひを草に引き結び かりねの野べの露のあけぼの
と歌ったが、ここでは「葵=あふひ」を「逢う日」に掛けている。
尚、葵の語源は、「仰ぐ日」である。これは、太陽に向かって花を咲かせるところから来ている。徳川家の家紋は「葵の御紋」と呼ばれ、三つ葉葵で知られている。
季語|秋草(あきくさ)
三秋の季語 秋草
一年を通じ、様々な季語となってあらわれる「草」。中でも秋は、草が最も印象的な季節。「草の花」「草の実」もまた秋の季語となり、生い茂る夏には名前も分からなかった草が、この季節になって種類ごとの特徴を明らかにする。
毎年腐っていくことから、「腐る」が元になっているなどの語源説があるが、明らかではない。古くから、人の増える様は、草にたとえられてきた。古事記では「青人草」といい、神々の父神イザナギは「汝、吾を助けしがごと、葦原中国にあらゆる現しき青人草の、苦き瀬に落ちて、患い悩む時に助くべし」と、オオカムヅミに命じた。旧約聖書にも人を「草」にたとえる表現が見られる。また、「種」を「くさ」と読ませて、物事の原因をいう。
万葉集には石川賀係女郎の秋草の和歌がある。
神さぶといなにはあらず秋草の 結びし紐を解くは悲しも
古くは、草を結んで願をかけるという風習があった。時代を下ると、草を結び枕にしたことから、「草を結ぶ」ということは野宿をすることの意に用いられてきた。