仲春の季語 如月
旧暦二月。まだ寒さが残り、衣をさらに重ね着ることがあるから「衣更着」となったという語源説がある。奥儀抄によると、「のどかな正月が過ぎると冴え返って、衣を更に着る」とある。
如月の和歌としては、新古今和歌集に載る西行法師の
ねがはくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ
が、あまりに有名。
新年になって初めて湯に入ること。正月二日に入る。産湯のこともまた初湯と言う。
「湯」の語源は「斎(ゆ)」にあると言われ、湯浴みとは、心身の穢れを濯ぎ「潔斎」の状態にすることである。
日本には、古くから湯浴みの習慣があったことが、記紀や風土記の記述から伺える。特に、「伊予国風土記」に見える伝説は、道後温泉の起源説として有名で、道後温泉が日本最古の温泉と言われる所以にもなっている。それによると、宿奈比古那(スクナヒコナ)を救うために、大穴持(オオナムチ・オオクニヌシ)が別府温泉から湯を引いてきて湯浴みさせたということになっており、古くから温泉の効用が認められていたということが分かる。
「湯水のごとく」という慣用句は、茶道具を清めるために大量の湯水を使う茶道から来た言葉だと言われるが、本来は「斎水」というのが正しいのではないだろうか。
初湯してうすぼんやりとおもふこと 高沢良一
道後温泉に行くなら、ぜひ泊まりたいのがふなや。道後温泉で最も古い歴史を誇り、正岡子規はもとより、多くの文人に愛されてきた宿。特に夏目漱石には、「はじめての鮒屋泊りをしぐれけり」と詠むなど、馴染み深い宿。その句は、玄関前に句碑となっている。
道をしへ(みちおしえ)・みちしるべ
コウチュウ目オサムシ科の昆虫で、体長約20㎜。日本では本州以南の、平地から低山地に生息する。4月から10月頃に、美しい金属光沢のある成虫が見られる。
古くは「みちおしえ」と呼ばれていたと考えられるが、中国には「斑猫」という毒を持つ虫がおり、薬として輸入されてきた。それに形が似ていたために、「みちおしえ」のことを「斑猫」と呼ぶようになったと思われる。その名残で、「みちおしえ」こと「斑猫」には、毒があるとの迷信が広がったとも考えられる。「斑猫」に独特の臭いはあるが、毒はない。
「みちおしえ」と呼ばれるようになった所以は、近寄るとふわりと飛び立ち、数メートル先に降り立ちつつ振り返り、ついていくとそれをくり返し、道案内をしているように見えるからである。夏場には、土が露出した神社の参道などに見られ、神のもとへ誘っているようにも映る。
つんつんと遠ざかりけりみちをしえ ほしのたつこ
鷲も鷹も、タカ目タカ科に属し、一般には大きめのものを鷲、小さめのものを鷹と呼んでいる。ただし、イヌワシと並ぶほどの大きさを持つクマタカも鷹と呼ばれるのを考えると、鷹斑模様がはっきりと出るものを「タカ」とすることの方が正しいか。
日本で有名なのは、体の大きい順に、イヌワシ、クマタカ、オオタカ、ハイタカであり、普通に「鷹」と言った場合は「オオタカ」を指す。成長すると肩羽が青みがかることから、「オオタカ」は、「アオタカ」の転訛と考えられている。
その他、日本で見られるタカ科の鳥に、トビ、ミサゴ、ノスリ、サシバ、ツミなどがある。似た形状を持つ猛禽類にハヤブサがあるが、こちらはハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属に分類され、近年の研究ではスズメに近い種類だと考えられている。
オオタカをはじめとする鷹は、古くから鷹狩に使われており、埴輪にも鷹匠と見られるものがある。仁徳紀には、百済で倶知(くち)と呼ばれる鷹が、罠にかかった話があり、調教した後、皮の縄を足につけ、尾に鈴をつけて鷹狩をしたとある。
万葉の時代、大伴家持は鷹を愛でていたと見られ、
矢形尾の真白の鷹をやどに据ゑ 掻き撫で見つつ飼はくしよしも
の歌が万葉集に載る。
高いところを飛ぶから「タカ」になったという語源説がある。古くから親しまれてきた鳥だけあって、慣用句になったものもいくつかあり、「鵜の目鷹の目」「鳶が鷹を生む」「能ある鷹は爪を隠す」「一富士二鷹三茄子」などがある。また、政治的分類で強硬派をタカ派と呼び、ハト派と対を成す。
春と秋にはタカの渡りが観測されるが、運が良ければ、多くの鷹が竜巻状に上昇していく鷹柱というものが見られる。芭蕉の句で有名な愛知県の伊良湖岬は、タカの渡りで有名なポイントで、秋にはサシバの鷹柱がよく観測されるという。
伊良湖岬の先端にある全室露天風呂付、オーシャンビューの人気宿。月の美しさが売りであるが、運が良ければ部屋からタカの渡りも観測できる。楽天トラベル・お客さまが評価する「泊まってよかったランキング」全国1位にも輝いた実績。
「草枯(くさかれ)」は秋のことを言うが、枯草は冬の季語になる。俳諧歳時記栞草に「枯草の露」は、秋之部に分類され、「枯野・枯草は冬なれども、露をむすびては秋なり」とある。
▶ 関連季語 秋草(秋)
風見草(かざみぐさ)・遊び草(あそびぐさ)
日本で柳と言えば、主にシダレヤナギを指す。これは中国原産で、奈良時代に渡来した。雌雄の区分があり、日本で見られるもののほとんどは雄株。落葉性で、秋の終わりに一気に葉が散る。春には、葉をつけて、雌株は柳絮という綿毛を生じて実を飛散させる。
河畔に多く見られるのは、柳が水気の多い土地を好むことと、洪水で流されたものが茎伏せで繁殖したためである。また、生命力が強いことから、水害防止に水際に植えられてきた結果でもある。有名な「銀座の柳」も、同時に植えられた桜や松が、水害で枯死した結果残ったと言われている。
このようにシダレヤナギは、古くから街路樹として用いられてきた。これは、悪鬼を遠ざけるために植えられていた長安がモデルとなっており、長安を模して街づくりが行われた名残でもある。明治以降、桜がより好まれるようになるまで、街路樹と言えば柳であり、柳を取り上げた句も数多い。
しかし日本では、いつしか、シダレヤナギの枝を伝って霊が降りてくると言われるようになった。一般には、その佇まいが幽霊を連想させるからだと言われている。
ヤナギの漢字表記には「柳」と「楊」があり、枝が垂れ下がるシダレヤナギには「柳」、枝が立ち上がる種類には「楊」の字を当てる。万葉集では両方使われているが、明確な区分がなされているかは定かでない。次の歌は作者不詳の東歌。
楊奈疑こそ伐れば生えすれ世の人の 恋に死なむをいかにせよとぞ
「ヤナギ」の語源は「矢の木」であり、むかしは柳で矢が作られていた。
ほんのりと日のあたりたる柳哉 志太野坡
草木の枯れはてて荒涼とした原野は、郷愁を誘う。「枯野」の句で最も有名なのは、事実上の芭蕉の辞世とも言われる「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」だろう。芭蕉があこがれた西行には、
朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて 枯野の薄かたみにぞ見る
という中将実方を弔った歌がある。「奥の細道」の道中で笠島に入った芭蕉は、同じように中将実方の塚を訪ねようとしたが、雨がひどくて疲れもあって、遠くから眺めたと記している。
古代において「枯野」と言えば船の名である。古事記(仁徳記)と日本書紀(応仁紀)と、記述に違いは見られるが、いずれも枯野という名の優れた船があったことが書かれている。そして、その船が使えなくなった時、塩を焼いて、焼け残りで琴を作ったとある。その時に、
枯野を塩に焼き其が余り琴に作り掻き弾くや 由良の門の門中の海石に振れ立つ浸漬の木のさやさや
という歌が歌われている。日本書紀の記述を辿れば、枯野は伊豆の軽野(狩野)から贈られた船だと想像できる。
この船名の枯野は恐らく「狩野」の転訛だと思われるが、本来「枯」は、「刈」「狩」に通じる言葉である。
イネ科やカヤツリグサ科の中の「草」と呼ばれる雑草は、秋に穂を出すものが多い。その穂は花であり実となるが、やがて綿状になって飛散するものもある。綿の中には種子が含まれ、翌年発芽して勢力を伸ばす。