三春の季語 春の野
雪が解けて、草花が芽吹く。春の野は賑やかで、変化が激しい。万葉集にも「春の野」は多く歌われ、山部赤人には
春の野にすみれ摘みにと来しわれそ 野をなつかしみ一夜寝にける
大伴家持には
春の野に霞たなびきうら悲し この夕かげに鶯鳴くも
がある。
郭煕(1023年?~1085年?)の画論「臥遊録」に、「春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠にして滴るが如く、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として眠るが如く」とある。これをもとに、「山笑ふ」は春、「山滴る」は夏、「山粧ふ」は秋、「山眠る」は冬。
春の山は、花や木の芽がほころび、小鳥も囀る。山に入れば、相好を崩し、声をあげて笑っている様子を感じ取ることができる。
▶ 関連季語 春の山(春)
春に降る雪は、積ることなくすぐに解けてしまう。
「山の井」「俳諧御傘」などで、「沫雪(あわゆき)」は冬に分類されるが、「俳諧古今抄」に「今按ずるに 淡雪は冬に用ふべき所以なし 雪の斑なる形容は 初雪ともいひ 薄雪ともいはん 春の雪の平白ならんも 日影にちりて淡雪ならむも 寒気の淡和なるゆえなければ 淡雪は決して春と定むべし」。また、「芭蕉翁廿五箇条」の「二季に渡るものゝ事」に、「淡雪は春季もしかるべし 口伝 新古式法あり」。
このように、芭蕉のころまでは冬の事物との認識であったと考えられるが、万葉集には詠み人知らずで
梅が枝に鳴きて移ろふ鶯の 羽白袴にあわ雪ぞ降る
があり、古くは春の認識であったとも言われる。
因みに「淡雪」は儚い雪の意味で「あはゆき」、「沫雪」は泡のような雪の意味で「あわゆき」となる。
▶ 関連季語 春の雪(春)
淡雪のつもるつもりや砂の上 久保田万太郎
暮遅し(くれおそし)・暮かぬる(くれかぬる)・夕永し(ゆうながし)
春は、日脚がのびて、暮れの遅さを実感するようになる。その春の一日のことを遅日と言い、なかなか沈まない太陽のこともまた遅日という。
エビやカニと同じ十脚目に属する。深海から、陸上に生息するするものもあるが、日本では、海岸で見られるホンヤドカリ・イソヨコバサミなどが一般的。
体のサイズに合った貝殻を探し当て、それを背負って生活する。成長するとともに、貝殻を変えていく。普通、引っ越しの時以外は、貝殻から離れることはない。
貝殻は、天敵から身を守るためのものであり、天敵を見つけると殻の中に逃げ込み、ハサミで殻の口に蓋をする。また、貝殻の内部は、削ったり浸食物質を分泌したりして、滑らかで広い空間に保たれている。
寄居虫の特徴として、体長の半分の長さにもなるペニスがある。ペニスが大きいほど、交尾の時に貝殻から離れなくてすみ、家を横取りされて天敵に襲われる危険性が低くなる。
文献上、平安時代以前から食用にされていたことが知られている。焼いたり刺身にしたり、塩辛にして食すが、現代では一般的ではない。
古くは「がうな」とされ、枕草子に、類焼にあった下男が「侍る所の焼けはべりにければ、がうなのやうに、人の家に尻をさし入れてのみさぶらふ」と、陳情にやってくる姿が描かれている。
おのが影引きずりて行く寄居虫かな 喜多和子
春になると、水蒸気などで遠くの景色が不明瞭になることが多い。「霞」は、気象観測において定義されていないために、気象用語ではない。夜の霞は「朧」という。
むかし霞と霧とに大きな区分はなかったが、古今集以降、春は「霞」、秋は「霧」と区別されるようになった。なお、「和名抄」に「霞は赤い雲気」とあり、夏の季語となる「朝焼け」「夕焼け」のことも、古くは中国に倣って「霞」の文字を用いた。「朝霞」「晩霞」の言葉もあるが、俳句では焼けの現象は指さない。
万葉集には、柿本人麻呂の歌で
ひさかたの天の香具山このゆふべ 霞たなびく春立つらしも
がある。
悩んだり、わだかまりがある状況を「霞」と表現することもある。浮世離れして清貧を貫くことを「霞を食う」と言ったり、一目散に走って姿を隠すことを「雲を霞」と言ったりもする。
春なれや名もなき山の朝がすみ 松尾芭蕉